福留麻里ソロダンス ワーク・イン・プログレス「まとまらない身体と」
撮影・編集:加藤和也
撮影:冨田了平

思い出す身体と、言葉にする頭と、動けない記憶

青柳菜摘

受付を済ませて会場に入ると、向かいには鏡、映る自分がどう動いているか練習するための、窓より大きな鏡がある。客席は弧を描くように数列配置され、すでに席がほとんど埋まっていたのでわたしは最前列の一番端の席に座る。もし、二列目だったり左から何番目だとかの位置だったら忘れてしまったかもしれないけれど自分の身体がどこにあったかよく覚えている。右肩越しに窓からの昼間の光を受けていた。公演の舞台といっても、一段上がる台はなく、客席と地続きのフロア。大型鏡の方に二畳ほどの不思議な質感のタイルが敷いてあり、丸まったミラーのシートとポールのようなものが立ててあり、くしゃりとした何かとボール、重ねられた木製丸椅子の上にはアルコール除菌シートがあり、プールにあるような大きなスポーツタイマー、蛍光灯が鮮やかな色のロープで吊るされている。いくつかの装置が空間に角度と奥行きを与えているからか地続きの舞台を舞台たらしめている。床には蛍光灯がもう一本寝かされている。会場全体は明るく、見渡せるようになっているので、これから現れる福留麻里も向こうに見えている。時間になると照明が変わることはなく、向こうから福留がやってくる。何か探しているのか確かめているのか、立ち位置を考えつつ、動き始める。

動き、のことを福留は「振付」と呼ぶ。ここで始まった振付は、訓練された身体を超人的に動かすのではなく、身体の仕組みをうまく利用して動きを発明したり、人間ではないものの動きを再現するようなものでもないように見える。むしろ、人間が普段の生活の中で無意識に動いてしまっている生活の余剰が、福留の身振りに現れているように見えた。日常的に行っている動きは、思い出そうとすればするほど誇張されておかしくなる。思い出された動きは、無意識に動いていたはずの余計な要素が削ぎ落とされるから、自分以外の誰かが見た時には、自然な動きに見えるかもしれない。自分が過去にした動きを記号的に捉えて、再現してしまうからだろうか。無意識にした動きほど、たとえば映像に撮られていたものをあとから見直すと記憶に残っていた動きと全く異なって見えるはずだ。わたしは人に見られながら身体を動かしたり声を出すことが苦手だが、そういう、頭の中にある動きと、実際にやってみて動いてしまう身体の余剰に違和感を抱いてしまうことも原因のひとつだ。○○する、という動詞になっている動きほど、動詞につられて、違和感のある“自然”な動きになってしまう。福留の身体を通すことで生活の余剰から生まれる動きが非-超人的振付に変わるのだ。

振付の合間には、すこし目線を下にして何かを思い出しているような時間があり、次に何が起こるのかと息を潜めて動きを待つ。二つ目の振り付けをしたあと福留が口元をあまり動かさず、「に」、とかすかに声を出す音が聞こえた。三つ目の次は「さん」、数を数えている。ここでは、時間の経過とともに一連の流れの中に身体があるのではなく、記憶をたどり、探りながら身体を動かし、振り付けを数えていく、「思い出す」ことをきっかけに、数を数えることで時間を作っている。思い出すことがこの公演をつくる一端になっていることがわかると同時に、時間軸に則って組み立てられた一連の動きが振付なのではなく、ひとつひとつが背景を持った動きのパーツであることがわかる。振付は、山口県のスタジオを拠点に作り始め、この時点(2022年3月26日)では99あった。そのうちの24を数える。1日が24時間だからなのかなと思ったらそこは関係ないようだった。99のうち、24を思い出す。それを3公演やるから最大で72の振付を思い出すことになる。動きを組み立てて関連づけて覚えていくのではなく、「思い出す」という即興性を与えることで、タイトルのごとく「まとまらない」、バラバラな振付がライブパフォーマンスとして同じ時間軸に並んでしまう。流れがあるパフォーマンスであれば、個々の動きとして明確に記憶することはできない。いくつもの振付が連なってできていたとして、一公演にいくつの振付が入っていたかはよほど専門的な目を持って見ないといけない。わたしはこの公演で24の振付が入っていたことが明確にわかる。これはすごいことで、時間軸のある作品は全貌を即座に把握できない。しかし、「まとまらない身体と」は、「思い出す」ことで一望できてしまっているような感覚を呼び起こす。

24の振付が終わって、次に、さっきの振付を思い出しながら動きの背景を福留が語り始める。身体を使って思い出していたものを、言葉を使って反芻する。観客からも、気になる振付があったらどうぞ聞いてくださいと言う。どう公演が始まるかわからなかったわたしは、24もある振付を始めから順に思い出すことは到底できず、目の前で語られ再現される振付を見ながら思い出していた。思い出すほど、記憶の中の順序はバラバラになっていき、並んでいた振付が解体されていく。思い出した振付を話そうとするが振付を言葉だけではうまく形容できない。言葉にすると振付が変わっていってしまう気がする。振付の背景について話を聞いてだんだんとその理由がわかってきた。振付には、動きが導き出された時間や、環境、身体の持ち主の考えていたことが記録されていて、○○する、という動詞にはなっていない。背景を言葉で説明はできるが、やはり動きが振付であり、ほかに形容できるものがないのだ。絵で書き留められた振付リストはあるが、どれも動きを端的に示す言葉は書かれない。福留自身が考えた振り付けと、そうでない誰かからもらったものがあり、誰かからの振り付けは動画で残してあるという。記憶の中に残る動きは、いつしか形容できるようになってしまうかもしれない。それを拒みながら、形容できない妙な動き、不自然であるからこそ普段わたしが目にしている本来的な自然な動きを振付としているようにみえる。「赤ちゃんはまだ手と足の区別ができていなくて、足も手と同じように思っていた。」さっきやらなかったけど思い出した、という動きもまた、言葉で示すことができない。

思い出している中で、「あっ、と言っていたところの振付はなんだったんですか」という質問がくる。「それは振付ではなくて。数を数え間違えたときに言ってしまったかも」と答える。振付と振付でない動きの差は明確にあるが、「振付の外」にも振付になり得る動きが生まれる。振付は突然生まれず、観客とのやりとりを通して、もしくは福留の中で思い返すことで振付になっていく。身に覚えのない自然な動きは、公演の中でも余剰であるが、余剰そのままを振付にできてしまう。振付は、公演以外のときそのまま振付というパーツのままだが、いざ観客の前に立った時に、振付の外までも、振付に見えてしまう。観客も振付かそうでないかはわかっているからこそ、福留が数を数え間違えたり、立ち位置を何度か直すことで、振付か否かがふっと崩れる。思い出し終わり、振付外からの新しい振付が出てくると、今度は会場の電気を消し蛍光灯と外光だけになる。搬出口の大きなドアを開け、遠くから「おーい」、と呼ぶ。新しい振付だ、と思うと同時に、呼ばれるがままに頭の中から前半にやっていた振付をまた思い出そうとする。今度は動きだけでなく背景も一緒に思い出せるようになる。会場の空間があり、舞台に装置があることで、私が関われない装置に福留の身体が反応している。こちらの身体は実際に動かず、あちらの身体で行われている動きを目で追って、頭で記憶している。思い出すことで、自分の身体が動かないまま動きがわかってくる。福留が丸椅子を窓から離れた端の方に出してアルコール除菌シートで拭き、わたしに「あちらにどうぞ」と言いにくる。わたしは舞台にあった装置としての椅子に座り直して身体を舞台へ、客席は弧を描いてるので元いた席の方へ向く。記憶は言葉で思い出せても、身体のように物理的に動くことはできない。でもこちらのわたしがあちらの福留の身体を思い出し、あちらの席にいた自分の身体を思い出すことで、言葉ではない身体の記憶を作ることができる。まとまらない身体は、「記憶を動かす」方法であるのかもしれない。

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青柳菜摘

1990年東京都生まれ。ある虫や身近な人、植物、景観に至るまであらゆるものの成長過程を観察する上で、記録メディアや固有の媒体に捉われずにいかに表現することが可能か。リサーチやフィールドワークを重ねながら、作者である自身の見ているものがそのまま表れているように経験させる手段と、観者がその不可能性に気づくことを主題として取り組んでいる。

2016年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了。近年の活動に「家で待つ君のための暦物語」(東京藝術大学大学美術館, 2021)、オンラインプロジェクト「TWO PRIVATE ROOMS – 往復朗読」(2020-継続中)、 「彼女の権利——フランケンシュタインによるトルコ人、あるいは現代のプロメテウス」 (NTTインターコミュニケーション・センター [ICC], 2019)、第10回 恵比寿映像祭(東京都写真美術館, 2018)など。また書籍に『孵化日記2011年5月』(thoasa publishing, 2016)、小説『フジミ楼蜂』(ことばと vol.3 所収, 2021)、詩集『家で待つ君のための暦物語』(2021)がある。プラクティショナーコレクティヴであるコ本や honkbooks主宰。「だつお」というアーティスト名でも活動。

佐々木文美(セノグラファー)

「まとまらない身体と」の制作は、コンセプトを1年くらいかけてゆっくり自分にインストールしていくことができた。
でもセノグラフィーの立ち位置を想定できたのは山口でのワークイン1ヶ月前で、普段の進行から比べるとだいぶ遅かった。

思いついたのは以下の2つで、
①たくさんある振りを観客に「たくさんある」と認識させる
②踊られなかった振りのことを観客に想像させる
①は、時間を溜めて並べる事はできないけど、それを連想させる方法を考えていけば、どこかにたどりつきそうな気がした。
②は、考えようとしたらぼぉっとしてしまった。
「あった」ことを考える前に「なかった」ことを考えた覚えがない
ぼんやりしていたらウクライナ侵攻が始まり、
翌日にスタジオイマイチでのワークインも始まり、その翌々日に終わった。
ワークインはあっちゅう間に終わって、戦争は続いている。
しばらくしてから、幽霊はそういう存在かもしれないなと思い浮かんだ。
いないのにいるかもしれなくて、透明でゆらぎのある存在感が魅力的。
幽霊的なアプローチについて、なにか良いアイデアがやって来ないかなと思っていたら
森下スタジオでのワークインが始まって、またすぐ終わった。

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佐々木文美

1983年生まれ、鹿児島県出身。セノグラファー。快快(FAIFAI)メンバー。多種多様な企画に舞台美術、空間デザインとして参加。ホームパーティーが好き。

作品の途中で寝転がる:福留麻里『まとまらない身体と』評

村社祐太朗

これは多分ダンス作品として作られたのだと思う。でも作品の中には福留の魅力的な発話がたくさん含まれていて、中でも作中で福留が「床が好きで、割とこの動きは思い出しちゃう」と言ったのをよく覚えている。肩の力を抜いて言った言葉だったとは思うが、私はこの言葉に作品の主題と力が集約されていると考えた。この文章を読んだ方が、ああわたしも『まとまらない身体と』を観ればよかったと思ってくれた方がいいので、まずは一息に、この作品の面白さは「床が好きで、割とこの動きは思い出しちゃう」に集約される。そして、だから私はこれからその内実を紐解いていく。と銘打っておく。

作品は三場に分かれていて、クリエイションの過程で徐々に増えていった90個くらいの短い振り(2秒で終わるものから、12,3秒ほどのものまでいろいろある)を、無作為にピックアップして20個ほど紹介するという営みに貫かれている。「紹介する」と書いたのは実際に福留が振りを踊ってみせる場合と、その振りのプロフィール、つまり考案者(福留でない場合も多い)や思いついた経緯、繰り返し踊るうちにその振りについて考えたこと等を、文字通り口で喋って紹介する場合の、主に二つの仕方で福留は、私たち観客と「振り」とを出会わせようと試行錯誤するからだ。彼女にとっては知れた仲だが、私たちにとっては初対面の「振り」について、福留は動きと言葉を尽くす。

第一場は16,7分で、20個くらいの振りを福留は実際に踊ってみせる。まず目がいくのは、今まさにやってみせた振りがこの上演が始まってから何個目の振りだったのかを、福留がいちいち数える様子だ。一つの振りを踊っては小さく「15」などと福留は呟き、また次の振りに移っていく。呟かない時もままあるが、それはたまたま声にしなかっただけだろう。20個ほど振りを紹介するとこの一場は唐突に終わる。おそらく福留がカチッと部屋の蛍光灯を点けたのを合図にして、作品は第二場に移っている。二場は22,3分で、この間の福留は私たちとごく自然に語らうような感じだった。「いまやったのは多分24個でした」とか「思い出したのをどんどんやっていこうと思ってやってる」「さっきできたほやほやをやってみよう」「これは〈かつおぶしの動き〉というタイトルがついてます」とか、「(一場のあるシーンを指して)あの時は本気でなんにも考えてなくて」「やってたら楽しくなってきて(長めにやってしまった)」とか、「(もともと)意味がなかった動きなんだけど、やっていくうちにイメージというか動く理由ができてきたりする。それはこういう意味かと思ったとか見てくれた人が言ってきてくれて、"ああそうかも"と思って理由が増えていく」等と話しつつ、時に再現を交えたり、あるいは会場から適宜質問や希望を募り、振りについて解題していく。この“上演らしくない”時間について穿った見方をしてもいいが、そんなことをしたところで意味はないだろうと思うくらい二場の福留は脱力していて、ほとんどへらへら振りの紹介に徹していた。そしてまたこの時間も唐突に区切られ、福留自ら部屋の電気を一部消し、第三場に入っていく。三場は、あえて気を遣って言えば作品中で最も“上演らしい”時間だった。福留は一場や二場と違って終始集中しており、さっきまで共に語らっていた私たちのことなど今は見えていないように見えた。終演後の福留の説明によれば、三場では一場で踊ってみせた20個くらいの振りを、もう一度踊ったということだった。また登場する振りの順番が一場と一致するかどうかは気にせずやっていた、とも言っていた。一観客として観ていた私が把握できる限りにはなるが、事実三場に登場する振りは一場と大きくは変わらなかったので、こう書いていると一場と三場の見え方には大きな違いがなかったと読者は想像するかもしれない。ただ実際に観ているとそこには大きな違いがあった。この違いに焦点を当てるのが本稿の目的である。

一場では、振りと振りの間に概ね「インターバル」が介在していた。それは福留が踊った振りの数を数える時間であり、またその精度について反省する時間であり、そして次に繰り出す振りを思い出し、やるかやらないか決める時間であり、またその振りを空間のどこで実行しようか検討する時間だった。福留は微妙に動いたと思ったら静止したり、口をもごもごやったり身体を実際にちょこっと使ったりして、思うままにインターバルを過ごしていた。不思議なのは、三場においてはこのインターバルが皆無だったことだ。三場は振りという要素に限っていえば一場とほとんど同じ内容であったと言ってもいいのだが、インターバルが消去されることで、あまりに印象が違っていた。終演後の意見会で、この不思議さに関する質問が会場から出た際、福留は以下のように説明した。一場では「動きの始まりと終わりを完結させる」、あるいは「影響し合わないように独立させ」ることに神経を使っていた。一方で三場では「前の流れを受けて、次の動きに移行していく」ように努めており「そうすると結構動ける」、とのことだった。この「結構動ける」というのは、インターバル=中断を締め出せるという意味でほぼ間違いないだろう。

端的に言って、一場が面白かった。見ていて考えることがたくさんあった。一方で三場は面白くなかった。それは福留が比較的無理をしているように感じてしまったからだ。ただ恐らく一般的に舞台作品というのは、概ね福留が第三場を形容して言った「結構動ける」といったようなモードで表現されることが多いだろう。またそれはモードでしかないことをしばしば忘れられ、主題や情動、さらには作品の構成を浸潤していく。そして上演中延々と判断を迫られるプレッシャーから身を守るため、「結構動ける」を最低限満たすべき水準に設定してしまう。これは恐らく重要な生存戦略ではある。延々と判断を迫られる苦痛は、「結構動け」さえすれば無害化できる。苦痛は踊りの相手役に相成り、ダンサーとは言えば苦痛に絡め取られるふりをしてそれを飼いならす。またこういった舞台作品にあって“見もの”なのは、生のままの苦痛が時たま顔を覗かせることだろう。作中、時たま苦痛が賦活化しそれに翻弄されダンサーの身体が痙攣を起こす。これが劇的なものとしてしばしば称揚される。ただ私が本稿で取り上げたいのはこういった苦痛の無害化と賦活化との間の振り幅に関することではない。この作品の主題は、苦痛をいかにコントロールするか/しないかのせめぎ合いから少し距離を置き、苦痛の扱いそれ自体について再考することだったのではないか。苦痛をコントロールの対象とするのではなく、単にそのときの身体と気分が、直面した苦痛を受け入れられるかどうか検討すること。そして検討している間、時間がだらだらと流れていってしまうこと。この事態こそが本作の意義であり、またそこに私は鑑賞者として窮屈でない居場所を見つけた思いがした。

では一場のどのあたりに目をやるべきなのか。先に挙げた「苦痛」とは、舞台作品が往々にして時間に支配されることを発生原因としている。しかし舞台作品はパフォーマーが時間をコントロールし、また同時に時間にパフォーマーがコントロールされることを重要な動力にしており、この制約を単に取り除くというのには恐らく困難が伴う。言い換えれば、時間切れがない振りをしたって単に傲慢に見えるだけという話だ。

一場の福留は、振りについて考えること(思い出す/批評する/精度を出す)ことに神経の大部分を集中させていた。あるいはそういうパフォーマンスをしていた。この様子が、私には苦痛と同居するための取り組み、あるいは時間切れについて都度考え直す(切迫具合を適宜勝手に都合する)姿勢に見えた。

福留が言うところの「動きを独立させる」所作の類縁と思われるが、ひとつの振りを終えた後の福留の態度は、ある種批評的であった。終えた振りの達成度に不満を持っているように見える時もあれば(首を傾げたり、来た道を振り返って見えない動線を手で押して整えたり)、充実した表情で「13」などと呟いて姿勢を正す時もあった。その時間感覚は一定ではなく、急いているように見えるときもあれば、沈黙しきっているあまりこちらを不安にさせることもある。また次の振りに向けて継起する思考は実に取り留めがなく、舞台上に散らばる小道具や美術との距離感を推し測り、次の動線を汲み出そうと思案しているように見えたり、あるいは寝転がるために、床の質感を足の裏で弄っているように見える時もあった。そしてやはりこのあたりの所作も、時間切れについて真摯に考えているようにも、ほとんど気に留めていないようにも見える。

総じて、一場にのみ存在したインターバルとは、都度別の審美眼が前景化し、行為を区切る基準や、空間を認識する視点がすり替わるような場であったのではないか。そしてその眼に抱き合わされるような形で、多様なスケジュールが適宜持ち込まれる。何を良しとするか判断する前提が変わるのだから、当然スケジュールも複数林立し、それが上演において一応継ぎ接ぎされる。とはいえこの見立ては因果を取り違えているかもしれない。多様なスケジュールがまずもって用意され、より気持ちに余裕が生まれるスケジュールにおいて、福留の時間感覚が弛緩し、視座がすり替わると考えることもできるだろう。兎にも角にもこの組み合わせが重要だと感じた。振りの精度の捉え方を変えることと、そこに充填される/それを下支えするスケジュールが複数的であること。この事態にあって、福留は、舞台上において新たな仕方で苦痛と同居していた。

冒頭に記したように、福留は「床が好きで、割とこの動きは思い出しちゃう」と終演後の意見会で言っていた。これは、床に仰向けに寝たまま、肘と膝はあまり曲げずに腕と足を弧状に大きく動かして、腰あたりを中心にずりずり体を回転させるという振りを、自身が今作の上演において比較的頻繁に選び取って踊ってしまうことの説明だった。福留はこの振りが発案された経緯も続けて語った。それは昨年の冬、福留が妊娠3,4ヶ月くらいの折、稽古のためにスタジオイマイチ(山口市)に行った時のことだった。スタジオ入りしてすぐに心身ともに力が抜け、身動きがとれなくなってしまったらしい。福留はただ床に寝転がっているしかできず、時間が無為に過ぎていったという。この経験がこの振りを生み出す端初となったとのことだった。私はこのあたりの話を聞いていて、妊娠・出産を経た福留には「無理をしない」モードが、上演に臨む態度のオプションとしてリストされたのではないか、と考えた。この作品においては、上演とはいえ、それよりも優先すべき体調があるという(生活においては当たり前の)ことが前提にあったのではないか。「床が好き」だったり「割と」「思い出しちゃう」といった自己本位的な気分が住まうだけの空隙を、作品の中に忍び込ませること。気の持ちように沿って、時間切れが何度も設定し直されること。それが一場の姿勢、ひいては三つの場に分けられていた作品の構成から伺い知れるような気がした。

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村社祐太朗

新聞家主宰。演劇作家。1991年東京生まれ。訥弁の語りを中心にした作品の特異な上演様態は「読むこと」そのものとも言われる。書くことや憶え繰り返すことを疎外せずに実現する上演を模索中。近作に『フードコート』(2019)等。2019-2020年度公益財団法人セゾン文化財団セゾンフェローⅠ。2020-2022年度THEATRE E9 KYOTOアソシエイトアーティスト。2023年2月に新作『とりで』(THEATRE E9 KYOTO)を発表予定。

「まとまらない身体と」小さな振付リスト(2021.0226〜2022.0323)

「まとまらない身体と」の稽古をはじめた2021年2月26日〜東京ワーク・イン・プログレスの前日である2022年3月24日までに作られた93の小さな振付のリストです。良かったら眺めてみてください。気になった振付を見つけたり、リストにある断片からどんな動きか想像して踊ってみたりしても楽しいかもしれません。
小さな振付は、このリスト作成以降も色々な方からいただいたり、日々の中でも少しずつ増えていて、現在(2022年8月)は120くらいあり、今後も増えていく予定です。もしも振付提供するよ!という方はぜひご連絡ください。
また、東京ワークインプログレスで販売した、紙の振付リストをSTORESで販売しています。
送料と袋代込みで500円です。もし紙の振付リストが欲しい方はぜひ。

「まとまらない身体と」アーカイブ再生リスト
変化していく身体を記録するメディアとして、未来の自分へのメッセージとして「振付」を捉えるということが作品制作の発端でもありました。それぞれの時期により、変化していくもの、変わらないものが蓄積していきます。

福留麻里ソロダンス ワーク・イン・プログレス
「まとまらない身体と」

ダンサー・振付家 福留麻里の約5年ぶりのソロダンスプロジェクト。

ダンスは色々なことからはじまって、その一つひとつの゙行き交う場所が 踊る身体です。 それぞれにバラバラなダンスのはじまりが、なるべくまとまりのないまま 集合できるような時間について、つながりのないものがつながっていくことについて、それを見るということについて考えながら進んでいます。

2021年2月から1年かけて、様々な変化をからだで辿りながら、
50以上の小さな振付を作ってきました。
振付は増えていき、繰り返される上演を終えても完成することなく続いていきます。
むすびつき ほどけて 消えていく 小さなはじまりの残像集。

ダンス:福留麻里
セノグラフィー:佐々木文美
宣伝美術:伊東友子
制作:萩谷早枝子
協力:時里充
主催:ローディング・エレファント

ローディング・エレファント

東京ワーク・イン・プログレス

会場:都内スタジオ(江東区)
※ 会場の詳細はご予約いただいた方のみにお知らせします。

2022年3月25日(金)19:00
26日(土)13:00 / 17:00

※ 各回終演後に意見交換会を行います

参加費:2000円(税込)
定員:各回15名18名(完全予約制)

助成:公益財団法人セゾン文化財団

山口ワーク・イン・プログレス

会場:スタジオイマイチ
山口県山口市道場門前2-4-15 中村ビル2F

2022年2月25日(金)19:00
26日(土)15:00 *

*ショーイング上演後、スタジオイマイチのイフクキョウコ ファシリテーションによる
対話型観賞会「パフォーマンスを見て話そう」を行います。

参加費:2000円
定員:各回6名(完全予約制)

共催:スタジオイマイチ
助成:公益財団法人セゾン文化財団
公益財団法人山口市文化振興財団

福留麻里

ダンサー・振付家。ダンスのはじまりや、ダンスになる手前にある可能性を探り、いくつものやりとりから生まれる感覚や考えや動きを見つめ紡ぎながら、様々な場や状況、人と共に踊っている。ひみつのからだレシピ(BONUS木村覚との共同企画)。2020-2021年度セゾン・フェローⅠ。2020年より山口県在住。

お問い合わせ

loadingelephants@gmail.com

ローディング・エレファント